『愛していると囁いて』 |
暁の最初の光が王宮に届くまであと半時を残す頃―――――。 「誰かある―――――――――!!」 王の苛立ちを含んだ呼び声が王宮に響き渡った。 「ファラオ!」 「ファラオ!これにっ。」 「何事かございましたか!!」 夜詰めの兵士たちがわらわらと不機嫌のオーラをまき散らす王の周りに傅いた。 メンフィスはその険をたっぷり含んだ視線の先に馴染みの忠臣の姿を見つけるとぞんざいに顎をしゃくった。 「朝駆けに参る。ウナス!供をいたせ。」 「・・・・は?」 メンフィスが王子であった頃は、頻繁に朝駆けの供を勤めたウナスだったが、キャロルを妃に迎えてからは絶えてなかった命令に思わず言葉を返した。 「なにをもたもたしておるっ!置いていくぞっ!」 踵を返したメンフィスはもう大股で歩き出している。 「メンフィスさまっ。どうぞ、お待ちをっ!!」 ウナスと居合わせた兵士たちの幾人かがあたふたと供をすべく王の後を追った。 風の如く馬を駆るメンフィスの背中を必死に追ったウナスらがナイルの岸辺で王に追いついた時には、今まさに金色の光を投げかけながら太陽の神ラーが姿を現すところだった。 兵士たちは息を飲んだ。 朝日の中で、馬上の姿を浮かび上がらせるファラオのなんと凛々しく美しいことか。 黄金の冠は光に煌めき、陰影を濃くした端正な横顔は神々しいばかりだ。 長い黒髪を風に靡かせ、すらりとした長身を見事な体躯の馬の背に預けて佇むその姿は、現世の神の名に恥じぬものであった。 「メンフィスさま・・・。」 状況も忘れ、今更ながら仕える主君の誇らしさにウナスが胸を熱くしていると、現世の神は、その姿に似合わぬ物憂げな顔でウナスを振り返った。 「メンフィスさま?」 怪訝な顔でウナスはメンフィスの傍に馬を進めた。 そういえば、最初からおかしかった。 夜の間は決して妃を離そうとはしないメンフィスが不機嫌に朝駆けの供を命じた。 ――――――もう状況はたった一つの事実を指しているではないか・・・。 「・・・キャロルさまとなにかございましたか?」 ウナスの問いにメンフィスはくっと眉根を寄せ、溜息を吐いた。 「―――朝方、目覚めたわたしはいつものように今一度、キャロルを求めた。」 「・・・はあ。」 メンフィスのあからさまな房事の告白に独り身のウナスは顔を赤らめて相づちを打った。 「あやつは素直に身を寄せてきた。愛いやつ、と組み敷こうとした刹那、あやつ、なんと申したと思うっっ!?」 「な、なんと申されたので・・?」 メンフィスのあまりの眼光の鋭さに、びくびくしながらウナスは先を促す。 「『ライアン兄さん』だっ!!こ、こともあろうに夫たるわたしが我が愛を与えんとする刹那、あやつは兄の名を呼んだのだぞっ!!」 「・・・そ、それはなんとも恐れ多いことでございます・・・。」 他になんと答えてよいものかわからず、ウナスはしどろもどろに言葉を返した。 「それだけではないっ!」 メンフィスはますますいきり立った。 「キャロルを問い質そうと思わず声を荒げたわたしに、あやつは『うるさいわねえ!!たまにはゆっくり寝かせてよっ!メンフィスなんて大っ嫌いっ!!』とぬかしおったっ!」 額に青筋を立ててがなり立てる美貌のファラオは、鬼気迫る迫力で供の兵らは声も出ない。 「そ、それはまた思い切ったお言葉を・・・。」 このメンフィスさまにそこまで言って命があるのは絶対キャロルさまだけだ、と確信しながらウナスはそう言うのが精一杯だった。 その時、ウナスはメンフィスの褐色の左頬がうっすらと赤みを帯びていることに気づいて、今度こそ血の気が引いた。 「メ、メンフィスさまっっ!???も、もしや、その頬の赤みはっっっ???」 ウナスの視線を左頬に感じて、メンフィスはばつが悪そうに鼻を鳴らした。 「・・・ふん。その折り、キャロルに打たれたのよ。」 ウナスは冗談ではなく、目眩がした。 生ける神を。 エジプトのファラオを。 眠いから、という理由で打つとは―――――!!!! もはや事はウナスの思考の範疇を大きく越えていた。 命を捧げてお仕えせん、と絶対の忠誠を捧げる主君が些細な理由で最愛の妃に頬を張られた。 これが他の者ならば、なんという不忠者!、と一刀の元に切り捨てる。 だがその不忠者はこともあろうに、王妃キャロル。 あくまでも話は夫婦ゲンカの域を出ない。 自分はいったいどうすればいいのか、とウナスは冷や汗が吹き出るほど悩んだ。 「・・・なにを固まっておる。」 メンフィスの怪訝な声にウナスは一気に現実に引き戻された。 「・・あ、申し訳ありませぬ。そ、それでメンフィスさまはいかがなされたので・・・?」 「どうもこうもあるまい。その場に留まれば、怒りにまかせてキャロルを抱いていただろう。だがそのようなことをいたせば、あやつめ、3日は拗ねて口もきかぬわ。それでは、わたしが堪らぬ。朝駆けにでも出掛けて気を紛らわすしかあるまい?」 「〜〜〜〜〜。・・・さようでございますね。」 もしやエジプトに君臨しているのは無邪気な王妃の方ではあるまいか、と愛妃には手も足も出せない主君を、ウナスは複雑な思いで見つめた。 「だが難儀なことぞ。このままでもあやつは拗ねておるだろう。わたしとて、朝駆けくらいでは腹立ちが収まらぬ。」 メンフィスは秀麗な顔を物憂く曇らせ、嘆息した。 「・・・メンフィスさま。」 メンフィスのこのような顔を見ると、ウナスはファラオの御ために自分がなんとかせねば、と使命感に胸が熱くなる。 「・・・・・・。」 そんなウナスにメンフィスは意味ありげに視線を流した。 「・・・メンフィスさま?」 「いや、男女のことを話すのにそなたほど似つかわしくない者もおるまい。忘れろ。」 メンフィスは自嘲気味に笑うと、ふい、と視線を外した。 メンフィスのこの態度がウナスの忠誠心に火を付けた。 「!お言葉ですがメンフィスさまっ。」 いつになく強い調子で言い返すウナスにメンフィスは視線を戻す。 「男女のことには不調法ですが、ことキャロルさまのことに関してはわたしもお付き武官として一家言もっております。ここはお役に立てるかと。」 「・・・ほう、そなたが。おもしろい。聞こう。」 口の端をおもしろそうに釣り上げて、メンフィスはゆっくりと腕を組んだ。 「キャロルさまが寝ぼけておられたとすると、おそらくはなにもはっきりしたことは覚えていらっしゃらないと思います。」 妙に断言するウナスにメンフィスは別の意味で不信の目を向ける。 「・・・なぜ、そのようなことをそなたが知っている?」 「はい。バビロニアで幽閉された折、キャロルさまの傍近くで寝食を共にさせていただいたことがあります。」 メンフィスの不信の意味など全く解した様子もなく、はきはきと話すウナスにメンフィスは苦笑した。 「・・・ほう。その折、キャロルは寝ぼけて何か致したか。」 「はい。ラガシュ王と間違われたようで、うたた寝をされたキャロルさまを運ぼうとしたルカの頬を平手でしたたかに。」 「・・・それはルカも難儀いたしたな。」 メンフィスはその状況を想像して、思わずくっ、と笑い出した。 「はい。ですが、キャロルさまはそんなことは全く覚えておらず、お目覚めになって赤くなったルカの頬をご覧になると、『どうしたのっ?ラガシュ王がまたなにかしたの?』と仰せでございました。」 「ルカはなんと申した?」 「しばし呆然といたしておりましたが、『・・・ご賢察のとおりにございますが、たいしたことはございませぬ。ご心配はご無用に。』と。」 「たいした男よっ。」 メンフィスは弾けるように笑い出した。 「メンフィスさま。肝心なのはそこではございませぬ。ルカはその折り、『わたしのせいで』とむやみにご自分を責められるキャロルさまの心理を逆手にとり、実に巧みにキャロルさまを懐柔いたしました。有り体に申せば、『あなたが無茶をすればわたしに咎がかかる』と真綿でくるんだ針の如くキャロルさまに言い聞かせて、キャロルさまの暴走を防いだのでございます。」 「・・・つまりそなたは、キャロルに怒りをぶつけるよりも、ろくに覚えていないだろうキャロルの罪悪感を衝いて意趣返しを致せ、と申すのだな。」 メンフィスの察しの良さにウナスは顔を輝かせた。 「さようにございます!ご明察、恐れ入ります。」 「・・・ふん。おもしろいではないか。」 メンフィスはニヤリ、と笑うと目に付いた岸辺の白い花を数本手折って葦の茎で手早く花束を作った。 「メンフィスさま?」 ウナスは花を手にするなどついぞ見かけたことのない主君の行動に怪訝な声を上げた。 「ふふ。ウナス。富にも権力にも靡かぬ我が妃を、見事この小さき花束で誘惑してみせよう。」 不敵に笑ってメンフィスはひらり、と愛馬に跨って馬首を返した。 「宮殿へ戻るぞっ!」 「あ、メンフィス!おはようっ。どこ行ってたの?」 悄然とした面持ちで朝餉の席についていたキャロルは、メンフィスの姿を見るとぱっと顔を輝かせて立ち上がった。 「久々に朝駆けに参った。それ、土産だ。」 そういうとメンフィスはキャロルの手に、葦の茎で束ねた小さな白い花束を放った。 「きゃっ。」 朝露に濡れたそれを驚いて受け取ると、ふんわりと優しい花の香りがキャロルの鼻腔に届く。 「ナイルの岸辺で見つけた。そなたが好きかと思ってな。」 「・・・メンフィス。」 じんわりと、キャロルの蒼い瞳が潤み出す。 「まあまあ、かわいらしいお花ですこと。さっそく生けさせていただきましょうね。」 ナフテラが優しく微笑んで花束を受け取る。 キャロルはメンフィスの胸に顔を埋めて、はらはらと涙を零した。 「・・・どういたした?」 「・・・だって。うれしくて。・・よく覚えていないんだけど、わたし、今朝あなたになにか言ったわよね?あなたはそれで怒ってどこかへ行ってしまったような気がしていたの・・。」 「・・・なにか申した気がする、か。」 メンフィスは苦笑して、華奢な身体を抱き締めた。 「おお、申したぞ。『ライアン』とな。確かわたしを『大嫌い』とも申しておったわ。」 「・・!」 キャロルは青くなってメンフィスを見上げた。 面白がっているような黒曜石の瞳と出会うと、彼女はほっと息をついて、おそるおそる口を開く。 「・・・怒ってないの?」 「ふん。腹が立ちすぎて突き抜けたわ。腹が減った。朝餉にいたすぞ。」 メンフィスはキャロルを膝に座らせたまま、どかり、と朝餉の席についた。 ナフテラが仲むつまじいその様子に眼を細めながら、ことり、とくだんの花を食卓に飾る。 「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。メンフィス。わたし、あの時家族の夢をみていて、寝ぼけてて、あのその・・・。」 小さくなって謝る妃を内心愛しく思いながら、メンフィスはわざと怖い顔を作る。 「ええい。許せぬわ。罰ぞ。今日一日はすべてわたしの申すとおりにいたせ。」 「・・・メンフィスの言うとおりに?」 「そうだ。」 キャロルはかわいらしい唇をきゅっと結んだ。 「・・・わかったわ。本当に悪かったもの。今日一日はメンフィスの言うことを何でも聞くわ。」 「よくぞ申した。」 メンフィスは至極満足の呈で、キャロルの唇を奪った。 「では、手始めに朝餉の給仕をそなたに申しつける。早くわたしに朝餉を食させよ。空腹ぞ。」 尊大に振る舞うメンフィスに、キャロルはかいがいしく世話を焼いた。 「メンフィスさま。首尾は?」 表宮殿に続く廊下でメンフィスを待っていたウナスは、上機嫌のファラオにこの計略が成功を収めたことを知った。 「うむ。ご苦労であった。キャロルめ、うまうまとこちらの手に乗りおったわ。」 「おお!それは重畳。」 ファラオの役に立てたことで、ウナスは得意満面であった。 「さて。キャロルになにを申しつけようか。楽しみなことよ。」 くっくっくっ、とさも愉しげに笑うファラオに、ウナスは深い満足を覚える。 上機嫌なメンフィスに目が眩み、もしもキャロルが真実を知ったなら、とはついぞ考えが及ばぬ忠義者であった。 「・・・愛しているわ、メンフィス。世界で一番あなたが好きよ。あなたがいないと生きていけないわ。本当に本当に大好き。あなただけを愛しているの。あなたがいれば他になにもいらないわ。・・・・・・ねえ、まだ言うの?」 キャロルは心底うんざりした様子で、上目遣いでメンフィスを見た。 午睡の時には膝枕をしながら。 湯浴みの時にはその背を流しながら。 そして、夕餉を終えてからは甘い口づけを交えながら。 キャロルは求められるまま思いつく限りの愛の言葉を捧げたが、メンフィスはまだ許してくれない。 今は長椅子にゆったりと背を預け、片手で美酒を傾け、片手で抱き寄せた愛妃の黄金の髪を撫でながら、その口から捧げられる己への愛の言葉を典雅な調べの如く楽しんでいた。 「ふん・・・。まだまだ聞き足りぬが。それでは今度はこの身でもって、わたしにそなたの愛を語って聞かせよ・・・。」 メンフィスは酔いに艶を増した黒曜石の瞳をぴたりとキャロルに充てて、杯をいっきにあおると軽々とキャロルを抱き上げた。 「!な、なにするのっ!?」 「・・・酔った。寝所に参る。」 いつにもまして、したたか酔った風情のメンフィスにキャロルは眉を顰める。 「・・・メンフィス?大丈夫?」 「・・・なにを申す。」 大股に寝所に入り、ずかずかと寝台まで突き進んだメンフィスはやや乱暴にキャロルを寝台に降ろした。 「きゃっ。」 小さく悲鳴を上げた途端、がばっ、と抱きすくめられる。 「〜〜〜〜〜〜〜。メ、メンフィス?」 「キャロル。」 くぐもった声で妃の名を呼び、メンフィスは彼女の鼻先で妃を見つめた。 「・・・そなたが愛しているのは誰だ?」 「あなたよ。メンフィス。」 「そなたの夫は誰だ?」 「・・・あなたよ。メンフィス。」 「『ライアン』ではないな?」 「もうっ、何言ってるの?」 「答えよ。」 「・・・違うわ。」 「・・・愛いやつ。」 後の言葉は激しく重ねられた唇にかき消された。 ―――――恋人たちの夜は甘やかに熱っぽく更けていく。 美酒に酔いキャロルに酔ったファラオは、うっかりとウナスの名を漏らしたことを翌朝まで覚えていなかった。 後日、なぜか王妃に口をきいてもらえぬ窮状を王に訴えたウナスだが、いたって淡泊に扱われた。 メンフィスにとっては、キャロルが自分に対して機嫌が良ければあとは知ったことではない。 ――――――かくてウナスは、『夫婦ゲンカは犬も食わず』という金言を、身をもって学んだのである。 Fin |