愛の奥宮殿へ
『そっと教えて』
Presented by さくら様
――――清々しい朝の光の中、この上なく優雅に美々しく整えられたそこは、王妃の寝室。
「姫さま。姫さま。お目覚めでございますか?」
小鳥が囀るような口調で、テティは寝台に横たわる王妃に声をかけた。
「・・・う・・・ん?テティ?・・・おはよう。」
寝ぼけた口調で言いながら身を起こした気配に、テティは寝台に掛かる紗をそろそろと捲り上げた。
いつもは一糸纏わぬ裸身を恥じて必ず胸元を隠して侍女に対面するキャロルだが、寝ぼけているのか無防備になにも隠そうとはしない。
ファラオの寵愛深いナイルの王妃は、女が見ても溜息が出るほど美しい。
真っ白な裸身に昨夜の名残のバラ色の痕も艶めかしく、しどけなく乱れた黄金の髪を身体に纏わらせている。
テティはファラオの愛撫のあとが衣装や装身具では隠しきれない場所にまで及んでいるのを見てとると溜息をついた。
「・・・ああ。お首のほうまで。昨夜もダメでしたか・・。」
「・・・え?・・きゃっ。」
テティの言葉に、ちょっと目が覚めたキャロルは慌てて身体を隠した。
「〜〜〜〜〜。・・・そんなに、付いてる?」
「・・・これではちょっと、御衣装や首飾りでは隠しきれませんわね・・・。」
「〜〜〜〜〜〜〜。・・・もう、やっ。」
キャロルは真っ赤になって掛布を被った。
「姫さま、ファラオにお願いしましたの?」
「したわよっ。恥ずかしいから、あんまり目立つところに付けないでって。何度も何度もっ。」
掛布から顔を出し、今度は怒りで顔を赤くしながらキャロルは言った。
「メンフィスさまはなんと仰せでございました?」
「『なにを申す。そなたはわたしの妃。わたしに愛された印を恥じる必要などなにもない。』ですって。・・・ほんとに、女の気持ちなんてなんにもわかってないんだから。私の話を聞いているようで聞いてないのよ。」
ぷりぷり怒って言うキャロルにテティは溜息をついた。
「・・・とにかく湯浴みをなさいませ。その後でなにか良い方法を考えてみますわ。」
こくん、と頷くキャロルを湯殿へ導き、髪を結い上げようとしてテティは息を飲んだ。
「・・・?どうしたの?テティ。」
「な、なんでもありませんわ。」
動揺を悟られまいと手早く髪を結い上げながら、テティはふつふつと涌いてくる怒りを感じていた。
キャロルの襟足から背中一面にかけて、わざと付けたと思われるバラ色の痕が散っていた。
ファラオの悪戯か意趣返しか、いつもより確実に多く鮮やかなそれに、悪意が感じられる。
――――――おかわいそうな姫さま。恥ずかしがり屋のこの方が、愛撫のあとを他の者たちに見られるのをどれほど恥ずかしく思われておいでか、メンフィスさまは少しも解って下さらない!
メンフィスが傍若無人に振る舞うのはいつものことだが、今回ばかりはテティも腹に据えかねた。
「・・・作戦会議ですわ。姫さま。どうしたらメンフィスさまの暴挙を食い止められるか、後でじっくり相談いたしましょ!」
力強く言う侍女に、キャロルは目をぱちくりしたが、すぐにうれしそうに笑った。
「頼もしいわ。テティ。」
「まずは力関係ですわ。ご夫婦間の力関係があまりにもメンフィスさまに偏っているのではございません?」
「うーん。それは感じていたわ。でもどうやって改善したらいいの?メンフィスはファラオだし、あの通りの気性よ。」
「でも根本はそこですわ。なんとかしないと、問題解決はありえませんわ!」
朝餉を終えた王妃の間。
人払いをしたそこでキャロルとテティによる『極秘の』作戦会議が開かれていた。
「・・・母がよく申しておりましたわ。夫を操縦するのは妻の腕の見せ所。暴れ馬の如き殿方をどう手綱を捌いて乗りこなすかは、女の力量に掛かっていると。」
「でもメンフィスは馬どころかライオンなのよっ。・・・難しいわ。」
溜息をつくキャロルに、テティは首を振った。
「なんの、姫さま。確かにメンフィスさまはあのご気性。ですが大きな弱みもございますわ。妻にベタ惚れの夫ほど、御し易き殿御はおられませんわよ。」
「そ、そお?・・・でも、どうすればいいの?」
キャロルはほんのり顔を赤らめた。
「メンフィスさまの操縦法を編み出さなくてはいけませんわ。母が申すには長年の経験と勘がものを言うそうですけど、そんなに悠長に構えてはおられませんから、なんとか捻り出しましょ!」
「そ、そうね。」
あの獅子の如き気性の夫を操縦するなんて可能なのかと首を捻りながらも、キャロルはテティの迫力に圧倒されて頷いた。
「うるうるの目でお願いする、なんてどうです?」
「・・・押し倒されそう。」
「甘えた仕草でねだってみる、とか?」
「絶対、押し倒されるわ。」
「・・・色仕掛けは効きませんか?」
「違うわ。効き過ぎるのよ。」
二人は同時に溜息をついた。
テティも意気込みはよかったが、いかんせん実地経験がほとんどゼロなのだ。
これでは発想が貧弱になるのも致し方ない。
「なんの。押してもだめなら引いてみろ、ですわ。恐れながら、甘えてダメなら脅してみてはいかがです?」
自国のファラオを脅せ、とはなんとも不遜極まりない話だが、テティは話に夢中で気づきもしない。
「脅す?」
「寝所を別にする、とか。」
「・・・怒り狂って押し入ってくるわね。」
「・・・そうですわね。じゃ、口をきかない、とか。」
「それをするとウナスに泣きつかれるのよ。メンフィスが不機嫌でしょうがないって。」
「この際、ウナス隊長には泣いていただきましょ。じゃ、この案は保留ということで。」
ウナスが聞いたら青筋立てて怒りそうなことを、さらっと言ってテティはどんどん話を進める。
「家出する、とか?」
「・・・テティ。」
話があらぬ方向へ向かって行くのを感じ、キャロルは溜息をついた。
「・・・え?メンフィスさまの弱み、でございますか?」
結局、経験乏しい二人でああだこうだ話しても埒が明かないので、とりあえず情報収集に励むことにした。
メンフィスのことに一番詳しいといえばナフテラだがそのままズバリ『夫の操縦法』を聞くのも憚られたので、弱みを聞いてみることにする。
「まあまあ、なんのお話でございますの?」
朗らかにそう尋ねられて、キャロルはうっ、と詰まってしまう。
「あ、あのね。メンフィスがどうしてもキスマークを付けるのを止めてくれなくて、それでテティと相談したんだけど良い案が浮かばなくて、メンフィスの弱みでも解ればって・・・。」
しどろもどろに説明するキャロルに、ナフテラは軽く目を見張り、出過ぎた振る舞いの多い侍女をめっ、とばかりに睨みつけた。
女官長の視線にテティはふくよかな身体を小さくして恐縮する。
「まあ、そのようなこと。弱みなど握らずともメンフィスさまはキャロルさまのお願いを聞いて下さいますとも。」
「聞いてくれないから苦労しているんだわ。」
キャロルは小さく溜息をついた。
「そんなことはございませぬ。では、こうしてご覧なさいまし。まずにっこり笑って。」
「こう?」
キャロルはにっこり笑った。
「そうそう。そしてお願いごとを申し上げる。」
「メンフィス。目立つところに痕をつけないでね。」
「そしてもう一度にっこり。」
「こう?」
もう一度にっこり笑う。
「はい。お上手でございました。」
「・・・え?これだけ?」
「はい。充分でございます。」
「こんなんでうまくいくの???」
「ほほほ。もちろんでございますよ。そして、そうですわね。メンフィスさまが諾と仰せになれば、身を寄せるようにしてお礼を申されませ。万一否と仰せられた時はほんの少しお泣き遊ばしませ。必ずや良いお返事を下されましょう。」
「姫さま!さすがナフテラさまですわ!早速お試しなされませっ。」
立場を忘れてテティがキャロルの手をとって喜んでいる。
「これ。ほんにそなたは立場も弁えず・・・。」
ナフテラは苦笑しながら、手を取り合って喜んでいる少女たちを見つめた。
――――――その日の夜のファラオの寝所。
褐色の腕に抱き寄せられながらキャロルはいよいよだわ、と身体を強ばらせた。
「・・・キャロル?どうした?顔が引きつっておるぞ。」
キャロルとしてはにっこり笑ったつもりだったのだが、緊張のあまり引きつってしまったらしい。
「ううん。なんでもないわ。ねえ、メンフィス?」
「うん?」
今度こそ、と思いを込めてにっこり笑ってみせる。
「あの、やっぱり恥ずかしいから、その、痕はつけないで、ほしいの・・・。」
ちょっと弱気な言い方になってしまったが、とりあえず言い切ってえい、とばかりに笑ってみた。
「・・・そなた、なにやら企んでおるな。」
黒曜石の瞳がすっと細められ、偽りを許さぬファラオの眼が容赦なくキャロルに向けられる。
「た、企んでなんか・・・!」
どうしてわかるのよっ、とキャロルは内心あせったがもちろん白状するわけにはいかない。
「・・・ふん。そのように不自然な態度を取りながらなにを申す。見え透いておるわ。」
「み、見え透いて・・?」
キャロルはあっけなく語るに落ちてしまう。
「キャロル。」
メンフィスはキャロルの細腰をぐい、と引き寄せて顎を掴むとキャロルの青い瞳を覗き込んだ。
「このわたしを謀るなど許せぬ。なにを企んだ?申せ。」
「企んでなんかいないわよっ。」
なんでこうなるの、と思うとキャロルの瞳にじわりと涙が浮かんできた。
「キャロル?」
「・・・もう、いい。メンフィスなんて嫌い。」
はらはらと、蒼い瞳から涙を零しながらキャロルは視線を外した。
メンフィスの瞳に初めて動揺の色が浮かぶ。
「なにを泣く?・・・泣くな。」
零れる涙をそっと指で拭うと、メンフィスはその胸にキャロルを抱き締めた。
「泣くなと申すに・・・。」
胸を暖かく濡らすキャロルの涙に、メンフィスは呻くように言葉を吐く。
「だって、もう嫌よっ。いくら言ったってメンフィスはキスの痕を付けるのをやめてくれないんだわ。わたしがこんなに頼んでるのに。こんなに嫌なのに・・!」
「・・・そんなに嫌か?」
「嫌だわ。何度も言ったわ。恥ずかしいからやめてって。」
「わたしに愛されるのが、恥ずかしいのか?」
「・・・!そんなこと言ってないわ。こういう痕を恥ずかしがらない女なんていないわ。」
「・・・・・・。」
メンフィスは不機嫌に黙り込んだ。
―――――愛しい女の身体に我が愛の痕を残してはならぬ場所があるなど、我慢出来ぬ!
まして、それが人目に晒されることで我が所有欲を大いに満足させ、性懲りもなくそなたを狙う者どもへのよい牽制になっておったに・・・。
だが泣かれては敵わぬ。このまま我を通せば、キャロルも意地を張ろう・・・。
メンフィスは苛立たしげに嘆息した。
「・・・ふん。衣装で隠れるところならよいのだな?」
「メンフィス?」
「平常ではない時のことゆえ、どこまで自重出来るかわからぬが・・・。そなたの言葉、胸に留め置こう。」
ぶすり、と不機嫌な様子を隠しもせずメンフィスは言った。
「・・・ほんと?ああ、ありがとう、メンフィス!!」
うれしさのあまり、キャロルは自然にメンフィスの首に腕を回していた。
「ふん。礼はたっぷり貰わねばなるまい・・・。」
桜色の唇を奪いながら、メンフィスは囁いた。
「姫さま。姫さま。お目覚めでございますか?」
小鳥が囀るようにテティはファラオの寝所で休む王妃に声をかけた。
「・・・う・・・ん?・・・テティ?・・まだ眠いわ・・・。」
紗に幾重にも覆われた寝台に横たわったままの王妃から、眠そうな声が聞こえる。
「まあ、もう朝も遅うございますのに・・。」
「・・・そうなの?・・・ちょっとしか、寝てない気がするわ・・。」
「・・・まあ、メンフィスさまはそんなに長くお放し下さいませんでしたの?」
テティは思わず頬を赤らめ、なぜか声を落とした。
「・・・それで、あの、姫さま、例の件はいかがでございました?」
「・・・例の件・・・?」
ぼんやりと言ってから、はっとしたようにキャロルは身を起こした。
「テ、テティ!見て!どう?どうなってる?」
「失礼致しますわ。姫さま。」
テティはそろそろと紗を捲り上げ、胸元を掛布で隠す裸身の王妃と対面した。
「まあっ。」
テティは歓喜した。
「付いていませんわ!」
「ほんと?」
「ええ。以前のものは幾つかうっすらと残っておりますけれど、新しいものは一つも!
ああ、よろしゅうございました。作戦成功ですわね!」
「・・・うーん、ちょっと予定とは違ってたけど・・・。まあ、いいわ。終わりよければ全てよし、よ。」
手を取り合って喜ぶ少女たちの間で、キャロルの胸元からはらり、と掛布が落ちる。
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
2人共、絶句した。
「きゃあああああ。」
キャロルの悲鳴が一瞬の静寂を破る。
「・・・もう、いやああ。メンフィスのバカ!もう、大っ嫌い!」
胸元を隠しながら涙ぐむキャロルに言葉を掛けることも忘れてテティは呆然としていた。
キャロルの胸元から下の素肌は、鮮やかなバラ色に埋め尽くされていた。
ここならば文句はあるまい、と言いたげなファラオの所業に、テティはふつふつと闘志がこみ上げる。
「なんの!姫さま。負けてはいけませんわ。作戦会議です!今度こそ、完璧な策を練り上げるのですわ!」
策よりもキャロルの演技力に問題があったのだが、無論テティの知るところではない。
「絶対、このままにはいたしませんわ。わたくしが腕によりを掛けて、あっぱれ妻の鑑よ、と言われるほどのメンフィスさまの操縦法をご伝授申し上げますとも!」
大国の王の操縦法を一介の宮廷侍女が王妃に教える・・・。
この倒錯じみた話を握り拳で力説するテティの迫力に圧倒され、キャロルはこくん、と頷いた。
「・・・頼もしいわ。テティ。」
――――さて、権謀術数の渦巻く政(まつりごと)の頂点に立つ、野生の獣の如き勘を持ち合わせた若者が、男女のことなど何も知らぬ少女の策に落ちることがあったかどうか、まだ答えは出ていない・・・。
Fin
