愛の奥宮殿へ


  『恋のバトル』

  Presented by さくら様




―――――下エジプトの宮殿では久しく不在であった王と王妃の帰国を祝って、賑やかな宴が催されていた。
篝火の明かりも眩しく、人々のさざめき、饗された歌舞音曲が場を華やかに盛り上げる。

宰相イムホテップは穏やかな笑みを掃いて、目の前に坐す年若い王と王妃を見つめていた。
バビロニアの騒動から揚々、最愛の王妃を連れ帰った王が王妃を見つめる眼差しは愛しげなことこの上もなく、恥じらいながら王に寄り添う王妃の愛らしさもまた、この上もなかった。
先代ネフェルマアト王から仕えるこの老宰相にとって、孫の如き年頃の王と王妃の仲睦まじき姿は大変好ましく、微笑ましかった。

――――なんとあの荒くれ者のメンフィスさまが。
世の若者のように恋に浮かされて妃を見遣るなど、ネフェルマアト王もオシリス神の御許で腰を抜かしておられよう。

「まあ、メンフィスさま。ほほほほっ。」

――――だが、喉に刺さった棘の如きはあのリビアの王女。
メンフィスさまのご意向など気にも止めず、人目も憚らぬあの恋慕。
なにやら嫌な予感が・・・。

カーフラ王女は扇情的な衣装に身を包み、王の隣に我が物顔で座を占めると、潔いほど王妃のみに関心を向ける王の腕に抱きついて、豊満な身体を押しつけていた。
若く美しい王を見上げる王女の目つきは、どう見ても男を誘惑している。
王妃の眉がぴくり、とひきつり不快そうな眼差しがちらり、とカーフラ王女を見遣った。
ふふん、と言いたげな挑戦的な眼差しで王女が応える。
これには王妃も腹に据えかねたのか、愛らしい唇をきゅっと結び、蒼い瞳できっ、と王女を睨み返した。

――――おや、これは・・・。

謀らずも目撃した女同士のつば迫り合いに、イムホテップは軽く瞠目する。
争いの元凶である王は幸か不幸か、杯をあおっていたために事態には気づいていない。

「ねえ、メンフィスさま。わたくし、テーベへの船旅が楽しみですわ。メンフィスさまとご一緒にナイルを船で行けるなんて、どんなに素敵でしょう!」
これみよがしに王の腕をぎゅっと抱き締め、あからさまに王妃を無視した物言いに、王妃の眼差しはますます険しくなる。
「カーフラ殿には、それほどにこのエジプトを気に入られたか。」
無礼にならぬほどの素っ気ない口調で、王は言葉を返す。
「まあ、もちろんでございますわっ。もうリビアへ帰るのが嫌になるほどでございますのよ。」
わざとらしいほど媚びた仕草で、王女が王にしなだれかかった。
「・・・っ!!」
優雅に広げた扇の陰で、王妃が怒りに息を飲むのがわかった。
「カーフラ殿?・・・どうやら酒が過ぎたようだ。下がって休まれてはいかがか?」
王は絡みつく王女の身体をうるさげに外すのに忙しく、またもや王妃の様子に気づかない。
「まあ、メンフィスさま。冷とうございますわ。カーフラは・・・。」
「・・・メンフィス。」
王女の言葉に被せるように、王妃が王を呼んだ。
「ん?いかがいたした?」
たちまちのうちに王の関心は王妃に戻る。
「・・・わたしも、少し酔ってしまったみたい・・・。」
王妃はいつになく艶っぽい仕草で王の腕に触れると、蒼い眼差しをあでやかに揺らしながら、王を見上げた。
「なんと。しっかりいたせ。」
王は慌ててそう言うと、たおやかな王妃の身体をその腕に掻き抱いた。
「そなたは酒が飲めぬにいつの間に飲んだのだ?少し顔が赤い。気分が悪いか?キャロル。」
長い指で優しく王妃の頬を撫でながら、普段の王からは思いもつかぬ気遣わしげな眼差しを腕の中の少女に向ける。
「・・・ん。大丈夫よ。お水でも飲めば・・・。」
水を持て! と侍女に命じる王の腕の中で、挑戦的な眼差しをちらり、と王女に向ける王妃にイムホテップは気づいた。

―――――おや、これはなかなか・・・。

幼いばかりに初々しく愛らしいお方、と思っていた王妃の思わぬ女の素振りに、なかなかやるではないか、とイムホテップは苦笑した。

怒りに震える王女には一瞥もくれず、王は杯をあおって王妃に口移しで水を飲ませた。
いつもは臣下の前でそんな素振りをされるのをひどく恥ずかしがる王妃が大人しく水を飲み、あまつさえ、もう一口、と所望したからたまらない。
それはもう、口移しとは呼べぬほどの熱烈な口づけに成り果てていた。
「ん・・。苦しいわ、メンフィス。」
恥じらう風に囁きながら王妃は、ちら、王女の様子を窺う。
「・・・!」
「―――!」

ばちばちばち。

激しく牽制し合う二人の女の視線。

「・・・まあ、ナイルの王妃はお酒が飲めませんの?ほんにその姿の如く子供のような方!」
先制ジャブを放ったのはカーフラ王女だった。
「!・・・あら、わたくしはメンフィスの妃ですもの。子供のはずがないわ。ねえ、メンフィス?」
言いながら王妃は王の首に白い腕を絡め、ぎゅっと抱きついた。

ばちばちばち。

王の肩越しにまたもや、女同士に火花が散る。


「・・・ふむ。これはなかなか見応えがあるな。ミヌーエ将軍。」
白い髭に手を遣りながら、イムホテップは傍らのミヌーエ将軍に声を掛ける。
「はい。我が王妃様もあの王女を向こうに回して、善戦しておりまする。」
「あの王女。剛胆なのか愚鈍なのか、あれほど露骨に関心を示されぬ王にああも大胆に懸想するとは。いったいどういうおつもりか。」
「まことに。王族とも思えぬ浅ましきお振る舞い。」
「だが王妃様には王女とのつば迫り合いに夢中になるあまり、王のご様子を見落としておられるようだ。あのように王を挑発されては今宵の閨が思いやられるであろうに。」
「・・・まことに。」
将軍が僅かに嘆息する。
彼らの眼前には、愛妃に抱きつかれてそれはそれは上機嫌な王がいた。

そして、臣下たちの危惧を尻目に女達の争いは新展開を迎える。

「メンフィスさま。かねてよりお申しつけの馬が本日納められて参りました。さっき、見てまいりましたが誠にすばらしい馬。明日にでも是非ご覧下さい。」
場の空気を読めぬウナスが王に話しかけたのだ。
「おお、やっと来たか。キャロル、ここで待っておれ。ちょっと見てまいる。」
直情傾向甚だしい王は早速腰を上げる。
「えっ、メンフィス。今行くの?」
「まあ、メンフィスさま。宴の途中でございますのに。」
異口同音に抗議の声に、すぐ戻る、と言い置いて王はその場を中座した。

王が席を外すと、カーフラの態度は目に見えてぞんざいになった。
じろじろと王妃の身体を無遠慮に眺め回し、くすっ、と小馬鹿にしたように笑う。
「!な、なんですの!」
「おほほほ。ナイルの王妃。我がリビアには胸や腰を豊かにする秘伝の技がありますの。得意な侍女を連れて参っておりまする故、よろしければ後で差し向けましょう。」
「な、なっ・・・!」
あからさまな侮辱に王妃の顔が真っ赤になる。
「・・・それでは、メンフィスさまがお気の毒というもの。」
ちら、と王妃の胸元に視線をやって王女は嘲った。
「!!」
王妃は屈辱に声も出ない。
「ああ、なぜメンフィスさまはそなたのような小娘・・・失礼、子供のような方をお妃に迎えられたのかしら?あの雄々しいファラオにはもっとふさわしい方がおりましょうに。」

ぶちっ。

王妃の中でなにかが切れた。

「・・・まあ、カーフラ王女。そんなにわたくし達の夫婦仲を心配して下さるの?ご心配なく。メンフィスはこのままの
わたくしが好きだと言ってくれますの。わたくしたち、とっても仲良くやっておりますわ。」
「!」
ちっぽけな小娘、と侮っていた王妃の思わぬ反撃に王女は顔色を変えた。
「ま、まあ、メンフィスさまはお優しいのね。心にもないことを・・・。」
「あら、ファラオが心にもないことを言う必要はないのではなくて?」

ばちばちばちっ。

もはや視線はスパークを飛ばしている。

「・・・ねえ、ナイルの王妃?我がリビアには『奴隷には奴隷の服を着せよ』ということわざがありますわ。・・・この意味、おわかりになるかしら?」
一国の、しかも同盟国の王妃を奴隷に例えるとは。
この暴挙に、一瞬、声の聞こえる範囲にいた者は息を飲んだ。
「!!・・・まあ、カーフラ王女。ではわたくしの国のことわざも教えて差し上げますわ。『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ』というのですわ。・・・意味はおわかりですわよね?」
「な、なん・・・!」
王妃もいつもの優しげな顔はどこへやら。蒼い眦をきっ、と上げて一歩も引かない。
どんどん言い合いがエスカレートしていく。
雰囲気を変えようと、慌てて侍女達がそれぞれの杯に酒を注いだ。
「この小娘がっ・・!」
王女が杯に口をつけながら、小声で、だが吐き捨てるようにそう言う。
「・・・デブ。」
王妃もいっきに杯をあおり、王女と視線を合わせぬまま小声で言った。
「なっ・・・!?」
わたくしはデブなのではなくて豊満なのよっ、そう言おうとしてカーフラが王妃にぎらついた視線を向けたのと、王妃がゆっくりと倒れ込んだのがほぼ同時だった。

「キャロルッ!?」

ちょうど厩から帰ってきた王が、妃が倒れ込む場面を目撃し、血相を変えて抱き起こした。
「いかがいたしたっ!?しっかりいたせっ!!」
ゆっくりと王妃の蒼い瞳が開き、焦点の合わぬ視線を王に向ける。
「・・・お酒、飲んでしまったみたい。・・・眠い。」
それだけ言うとまたすぐにナイルの如き瞳は閉ざされてしまった。
「・・・キャロルッ!?・・・そなた、まさかこのまま、寝入ってしまうつもりではないだろうな?」
王が慌てて王妃の身体を揺するが、う・・ん・・、と言ったきり起きる気配がない。

「冗談ではないぞっ!!わたしが今宵をどんなに楽しみにしていたと思っているっ!!」

広間中に響き渡る大音声で、王の声が響き渡った。
熱愛する新婚の妻を、バビロニアからようやっと救い出し、帰国した第一夜。
それは、誰もがわかっていることではあったが、ここまで大胆に宣言されてしまうと音楽は止み、大臣達は飲みかけの酒を吹き出し、侍女たちは運んでいる料理を取り落とした。
気まずく、面映ゆい空気が辺りを支配する。

「ま、まあ、メンフィスさま。よろしいじゃございませんの。今宵は、わたくしが・・・。」
いち早く立ち直り、王の肩に手を掛けたのはカーフラ王女であった。

「カーフラ王女。」

低い、殺気すら含んだ声。
王女はビクリ、として思わず王の肩から手を離す。
剣呑な光を宿した漆黒の眼差しが、肩越しに王女を射抜いた。
「これは我ら夫婦の問題。口出しは無用に願おう。」
怒れる神の如く不穏な空気を撒き散らす王に、さすがの王女も口が出せない。
王は意識を無くした王妃を抱き上げると、広間を睥睨した。
「皆の者!我らはこれにて下がる。そのほうらはゆるりといたせ。」
一同が一斉に礼をとった。
王は面白くもなさそうにうなずき、王妃を抱いて下がっていった。


王が下がってすぐ後、王女はヒステリーを起こして杯を床に叩きつけ、侍女を引き連れて下がっていった。

「・・・リビアの王女も無謀な戦を挑んだものよ。」
イムホテップはその様子を見送って呟いた。
「まことに。勝機はいささかもございませんでしたでしょうに。」
傍らの将軍が応じる。
「愚かにもあの王女にはそれがわからぬとみえる。蓮の花に心奪われた若者の鼻先に、香りのきつい花を押しつけたとて、疎ましげに払われるだけであろうに。」
「さようにございます。ですが王妃様も今宵はなかなかのご活躍でございました。」
「ふむ。カーフラ王女と立派に渡り合っておられたな。・・・少々、言葉が乱れた箇所があられたが。あとはファラオと仲睦まじき夜を過ごしていただければ、この上もないが・・。」
「・・・イムホテップさま。それは我らの力の及ばぬところ。」
冷静沈着な将軍が苦笑混じりに言葉を返した。
「おお。そうであった。いささか言葉が過ぎた。」
イムホテップは柔和な笑みを零し、将軍に頷いて見せる。

――――――どうも、祖父のような気持ちになってな。

イムホテップは胸の裡で呟いた。

―――――亡きネフェルマアト王の代わりに見守ってまいろう。
新しきエジプトの年若き王と王妃を。心から愛し合うあの二人を。
エジプトの未来を作っていく、あの二人を。

イムホテップは穏やかに杯を口に運んだ。
今宵の酒はなつかしい味がした。




王と王妃がいかなる夜を過ごすかは、王の翌日の機嫌を案じた人々によってさまざまに憶測が飛び交った。
しかし、どれほど案じようと確かめる術はもちろんない。
家臣達は一様に、ナイルの王妃が目覚めることをハピに祈るばかりであった・・・。




Fin