愛の奥宮殿へ

『Where?』

 Presented by さくらさま 



「・・・解せぬっ!なにも聞こえぬぞっ。」
「・・・だからまだ、聞こえないってば。」
キャロルは今日何度目かになる溜息をつきながら、己の腹に耳をそばだてる夫に言った。
「そんなにすぐには無理よ。わたしだってまだなにも感じないんだから。」
そんなキャロルを尻目に、メンフィスは苛立たしげに身を起こすとネゼクを呼べっ、と声高に命じている。


キャロルの懐妊がわかってからというもの、メンフィスは昼となく夜となく、キャロルと顔を合わせる度に、人目も憚らずキャロルの腹に手を当て、耳をそばだて、胎動を探すことに余念がない。
というのも、キャロルの懐妊に喜んだのも束の間、「王妃さまのお体に障ります故。」の一言で、メンフィスは半ば強制的にキャロルと寝所を分けられてしまったのである。
かくて何の心の準備もなく愛妃と引き離され、否応なしに禁欲生活に突入した王は、ネゼクに言い渡された“解禁日”―――『安定期』―――を心待ちにしていた。
その目安が“胎動”なのである。

「・・・お呼びでございますか?」
どこかビクビクしながら、侍医ネゼクが参上した。
ファラオのお召しが再三に渡るため、王妃の懐妊がわかってからというもの、宿下がりもままならぬ侍医はもはやノイローゼ寸前である。
愛妃に触れられぬという、凄まじいばかりのファラオの苛立ちの矢面に立たねばならぬのだ。
メンフィスの鋭い眼差しに一閃され、ネゼクはのっけから竦み上がった。
「ネゼクッ!どうなっておるのだっ!胎動などどこを探しても見つからぬぞっ!」
「・・・和子さまは、未だお小さくてあられるのです。今少し、お育ち遊ばさねば胎動をお感じになることはご無理でございましょう。」
ネゼクは幾度目かになる説明を再び口にした。
「そうよ。まだとっても小さいのよ。」
キャロルもネゼクに口添えしたが、メンフィスが納得出来るはずもない。
「ええいっ、いったい、どれほど小さいと申すのかっ!」
「恐れながら・・・。」
ネゼクは並べられた昼餉の膳にすばやく目を走らせ、串に刺されたいわゆる“やきとり”を手に取った。
「・・・これほどかと。」
「・・・なに?」
メンフィスはネゼクが思いがけなく手に取ったやきとりをまじまじと見つめ、ついで視線をキャロルの腹部に移した。
「や、やだ、メンフィス。なに考えてるの?」

――――これがあの腹の中で動いている。
・・・確かにこれほど小さければ、気配を探るのは難しかろう。

「ではネゼク。どれほど大きくなれば胎動が解るようになるのだ?」
メンフィスはキャロルの困惑を無視して、ネゼクに向き直った。
「はっ。恐れながら・・・。」
ネゼクは再び昼餉の膳に手を伸ばした。
「・・・これほどにもなれば。」
ネゼクの手には掌ほどの大きさのパンが載っている。
「・・・ふむ。」
「や、やだ。ネゼクったら赤ちゃんをやきとりやパンなんかに例えないでちょうだいっ。メンフィスも納得したりしないでっ。」
キャロルは顔を赤くして抗議したが、非常に身近な例えのおかげでメンフィスは初めて和子を具体的にイメージすることができた。
「・・・ではネゼク。やきとりがパンになるまで、どれほどかかる?」
「だからやめてってば。」
キャロルの抗議を余所に尚も二人の話は続く。
「・・・は。およそではございますが・・・。」
「うむ。申せ。」
次の言葉を口にするのは、ネゼクにとって非常な勇気がいった。
「・・・あと三度の満月を数えませぬと・・・。」
見る見るファラオの秀麗な顔に勘気が走り、迫り来る嵐の予感にネゼクを始め居合わせた侍女たちは思わず身を竦ませた。
「なんと申したっ!?このファラオたるわたしに、それほど長く妃と離れておれと申すのかっ!」
ファラオの怒声が雷の如く奥宮殿に響き渡った時だった。

「い、痛っ、痛〜いっ!」

時ならぬ王妃の悲鳴に、その場に居合わせた者達は一斉にうろたえた。
「キャ、キャロルッ!?」
「王妃さまっ!?いかがなされましたっ!?」
「きゃああっ、大変、王妃さまがっ!」
キャロルは腹部を押さえてつらそうに眉根を寄せている。
メンフィスはやもたてもたまらず、妻を腕に掻き抱いた。
「いかがいたしたっ!?どこが痛いっ!?」
「・・・お腹が今、ぎゅっ、てなったの。痛かった。メンフィス、お願いだから大声出さないで。胎教に悪いわ。」
「なに?・・・たいきょう??」
「メンフィスが怒ったり怒鳴ったりすると、赤ちゃんに悪いの。」
「・・・なんと!?ネゼクまことかっ!?まことそのようなことが!?」
実を言えばネゼクには王妃の言うところの真偽の判断はつかなかった。
だが、この場合は是非もない。
ネゼクは臣下一同の総意を代表して、重々しく口を開いた。
「・・・はっ。まこと王妃さまの申されるとおり。ファラオのあまりの激高は和子さまに障りましょう。」
「なんと、そのようなことが・・・!」
メンフィスは絶句し、まこと懐妊とは神秘なるものよ、と首を振った。
かくて心中はどうあれ、それ以降メンフィスはキャロルの前で激情のまま、声を荒げることは無くなったのである。




あの日から月は二度満ち欠けを繰り返した。
三度目の満月に向けて、丸くなっていく月を見上げながら、メンフィスはキャロルの待つ奥宮殿へと回廊を渡っていた。
あれからメンフィスは超人的な忍耐力を発揮し、声を荒げるどころか普段の彼からは想像もつかないほど優しく振る舞い、キャロルを気遣った。
だがその一方で、メンフィスは長い禁欲生活に疲れ果て、生けっぱなしの花のようにいつしかその生気を削がれていった。

「お帰りなさい。メンフィス。」
「キャロル、変わりはないか?」
今宵のキャロルはナイルの如き蒼い夜着に身を包み、清楚な美しさに輝いている。
だが今のメンフィスには、その美しさが恨めしい。
手折ることを禁じられた愛しい花に近づけば近づくほど、やるせなさが増すばかりだというのに、それでもメンフィスはキャロルに触れずにはいられない。
もうほとんど習慣になってしまった仕草で、メンフィスは僅かに脹らみかけたキャロルの下腹部にそっと手を触れた。
「和子よ。父が帰ったぞ。」

その時。

僅かに、ほんの微かに、指先になにかを感じたように思った。
「!?」
がばっ、と鬼気迫る勢いでメンフィスはキャロルの腹に耳をそばだてた。
「もう、メンフィスったら・・。まだ聞こえないってば・・・。」
「うるさいっ。黙っておれ。」
この上なく真剣な夫に、キャロルは話すどころか身動きも出来ない。
しばし微妙な緊張が流れ、全神経を研ぎ澄ませて和子の気配を探るメンフィスの頬に、ピクッ、と確かにキャロルの下腹部が痙攣するように動くのが感じられた。
「あ・・・・。」
驚いたように声を上げたキャロルの顔をメンフィスが鋭く見上げる。
「今、和子が動いた。そうだな!?キャロルッ!?」
キャロルはメンフィスの迫力に押され、おずおずと頷いた。
「え、ええ。動いた、みたい・・。」
「おおっ・・・!」
メンフィスは湧き上がる喜びに、思わずキャロルの腹に顔を埋め、エンネアドの神々に感謝の祈りを捧げずにはいられなかった。

―――――神よっ。我が魂のすべてを捧げて感謝をっ!

「・・・メンフィスったら、すごいわ。わたしより先に胎動に気が付くなんて・・・。」
心底感心したようにキャロルが呟いた。
一日千秋の思いで胎動を切望していたメンフィスの執念が、母親より先に父親が胎動に気が付くという奇跡を成し遂げたのだ。
「そんなことはどうでもよいっ。すぐにネゼクを呼べっ。」
嬉々として命じるファラオに応えて、ほどなく侍医が姿を見せた。
「王妃さま、胎動をお感じになられたとか・・・。」
「ええ。たった今感じたの。」
「ネゼクッ。早々に見立てよっ。」
「それでは失礼して診察を・・・。」
じりじりしてネゼクの診察を待つメンフィスの元に、まもなく彼が待ち焦がれた吉報が届けられた。
すなわち、『王妃さまは安定期に入られた』と。



「ほんにようございました。メンフィスさまのあの萎れようは、見ている方がつらいほどでございましたもの。」
嬉々として王妃を抱いて寝所に消えたファラオを思い出しながら、ナフテラは和やかに侍医に話しかけた。
「さようですな。わたしもひとつ、肩の荷を降ろしましたぞ。これで今宵はよく眠れるというもの。」
「まあまあ、ネゼク殿には辛い日々でございましたな。ですが、お見立てよりも早めの胎動は不幸中の幸いにございました。」
「なんの、ナフテラ殿。このネゼクは見立てを誤りませぬぞ。ファラオには少しばかり余裕を持った見立てを申し上げたまで。三度の満月が上るまでには、胎動があるものと思うておりました。」
「まあ、ネゼク殿。それは・・・。」
ガラにもなく、悪戯っぽく笑うネゼクにナフテラは僅かに目を見開く。
「万が一にも見立てより胎動が遅れれば、ファラオの苛立ちはいかほどかと。それを思えば恐ろしゅうて。・・・まことのことは申し上げられませなんだ。」
「・・・ほんに、和子さまご誕生までは気が揉めますこと・・・。」
深い溜息の中にも安堵を滲ませる実直な侍医に、ナフテラは穏やかに微笑んだ。


Fin
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恵湖様からのリクエストイラストに、さくら様からの素敵なお作をいただきました。

実は王様、この時相当「必死」だったのですね(微笑)

思わぬプレゼント、とても楽しませていただきました。
どうもありがとうございます。     From PLEIADES