愛の奥宮殿へ
『 溜 息 』
Presented by Rayさま
その日、何度目かの溜息をつく主君を見てはさすがに将軍は聞かざるおえなかった。
「王、何か問題でもおありなのでしょうか?」
ホルス神が彫られた玄武石の椅子に座り、右手をこめかみにあて普段の快活な王の様子からは程遠いその仕草に将軍の問いかけにも力が入る。
「どうなさったのですか、お具合でも悪いのですか?」
「・・・・・うるさい、聞こえておるわ」
ぶすっとして機嫌の悪そうな返答にいささかもひるまず、ついと椅子から立ち上がった王の後を追って行く。
河から吹く午後の風がゆるやかに王の衣の裾に触れて過ぎていく。
かなりの早足で歩いて行く王の行く先は、言わずと知れた最愛の娘がいる宮殿だ。
政務の事で何か気がかりなことでもあられるのだろうか。
ナイルの娘の意見を聞きに行かれるのかも知れない。
そう思いながら王の後姿を見ていた将軍は驚いた。
「・・・・やはり帰る!・・・」
眉間に皺を寄せた王が踵を返し、振り返ったからだ。
「メンフィス様、本当にいかがされたのですか!!」
王の一番の信頼厚き忠実な武官を自認するミヌーエ将軍にとって、主君の取る不可解な行動はこの上なく彼を不安にさせた。
二人はそのまま王の居室に向かい、そこで将軍は王から意外な話を聞くことになった。
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ところ変わってこちらはキャロルの宮殿。
数日後にアメン神の大祭、そして待ちに待ったメンフィス王とキャロルの婚儀を控え、華やかなざわめきと抑えきれない興奮が宮殿中に漂っている。
廊下を歩く侍女らの声も浮かれ気味なのは当たり前か。
「さ、キャロル様こちらの衣装はどうでしょう」
「ええっ、そんな薄い布じゃ透けてしまうわ、わ、わたし胸に自信無いし。ほら・・・やっぱりこっちの方がいいんじゃない?」
「それではメンフィス様が納得致しません!ではこちらは?布の質といい模様のあしらいといいテーベ一の仕立てですわ」
「まあ〜、素敵です!メンフィス様が喜ばれますわ〜」
着るのはキャロルの筈だが、何故か侍女達はこの衣装選びに異様に興奮している。
侍女達が次から次に広げる服。それはキャロルが婚儀の夜に着る夜着。
しかし、それらはどれもこれも体の線が透けて見えるくらいの薄さでいくら何でもそんなあられもない服はキャロルには着られない。
いくらそれが初夜であっても。
しかし、侍女達の衣装選びにかける意気込みは凄まじく、さすがのキャロルも朝から続くこの騒動に疲れを覚え、根負けしてしまいそうになっていた。
キャロルの頼みのナフテラ女官長は、大祭と婚儀の采配で忙しく今日などは顔も見ていない。
「・・・いつもなら今頃はメンフィスが来て連れ出してくれるのに、どうして今日に限って来ないのよ〜〜〜〜〜っ」
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王の居室。
ナイルが見える部屋に王と将軍がいた。
「では、私がキャロル様にその件をお伝えしましょう」
「・・・ならぬっ。やはり私が言う」
言いたいのか言いたくないのか、どうすればいいのか、どうしたいのか。
いつもの王にはありえない光景だった。
「あの猫は元々、シェぺス・ウトの娘の飼い猫だったと知ればキャロル様はそれでちゃんと納得されます。何をそんなに悩んでおられるのですか?メンフィス様らしくありません」
「キャロルの、あの顔が忘れられぬ。あの猫を抱き、あのように喜ぶ様をわたしは数えるほどにしか見ておらぬ。あんなに可愛がっていたものを・・」
しばし自分の記憶の中に沈む王。
あれはキャロルが暗殺者に襲われた日の朝だった。
午前の政務を終えたところへ貴族であるシェぺス・ウトが執事に案内され娘を伴い王に婚儀の祝賀品を献上に来たのだった。
父が祝いの口上を言い終えないうちに後ろに控える娘がこう言った。
茶色の瞳をした生気に溢れた顔。10歳になると言う。
「偉大なる陛下、慈悲深き陛下。どうかわたしの猫を返して下さい!」
あっけに取られる周囲をよそに娘はそのまま泣き出してしまった。
父は顔を真っ赤にしていきなりの娘の醜態に慌てふためいている。
「猫?そなた何を言っているのだ」
「わたしのセネヘトを返して下さい」
「セネヘト(バッタ)?猫ではないのか?」
「・・バッタのように飛んだり跳ねたりするから・・・。わたしがつけた名前です」
「白い長毛の猫か?」
「そうです!その猫です。伯父が北方から連れてきてわたしにくれたのです」
「・・・狩りの帰りに見つけたのだぞ。何故、そのような所にいる?」
「狩場の隣りの荘園はわたくしの妻のものでして、その日娘が猫を連れて荘園に行っておりました」
ひたすら申し訳なさそうに平伏して答えるシェぺス・ウト。
「セネヘトは馬の嘶きに驚いてしまって誤って狩場の方へ行ってしまいました。
狩場へ入り探すことも出来ず、もう諦めていたのです。ですが、バザールにいらっしゃったナイルの娘のお話を耳にして娘はセネヘトに違いないと・・・」
「そうか・・・。そうだったか」
メンフィスは王である自分の前でも物怖じせず語る娘に感心し、その勇気に笑った。どことなくキャロルに似ていると。
側に控える執事も近衛兵も皆が王の様子に驚いた。
「わかった。そなたのものはそなたに返そう」
まだ笑いの残る口元。
「陛下、本当ですか!!」
「ただし、返すのは婚儀の日の夜だ。キャロルもだいぶあの猫に執心いたしておるゆえ、急にいなくなると寂しがるであろう。それでよいか?」
「はい、構いませぬ!本当にありがとうございます!」
お日様のように満面の笑みを浮かべ笑う娘だった。
しかし、娘の話をしようと思っていたその日の夜にキャロルは暗殺者に襲われそのごたごたに紛れ、結局婚儀の日まで話はせずじまいだった。
あまりに猫を可愛がるキャロルを見るにつけ、勝手に猫を娘に返すことを決めた自分に罪の意識を感じたせいもあったが。
そして、悪夢のあの婚儀の惨事・・・・。
いなくなったキャロルの捜索が続く中、あの場に居合わせた執事が宰相の許可を取り、猫は元の飼い主の元へ帰っていった。
そして数々の困難を乗り越えアッシリアからやっとエジプトに帰還したキャロルが自分の宮殿に落ち着いた際にこう言ったのである。
「あら、あの子はどこなの?早く会いたいわ」
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愛しい娘がどんな顔をするか。
どんなことが起きても強靭な精神力で乗り越えてきたが今回ばかりはそうもいかないようだ。
また、溜息が出た。
愛しい者を思い、その者のためにだけ出る優しく切ない吐息が。
おしまい
