‐ 傷 跡 −
「痛いっ!」
「あまり急激に動かしてはいけませんよ。キャロル。」
「・・・・・・」
キャロルは骨折した腕をかばって唇をかみしめていた。
あれから4日。
メンフィスが自分の腕を砕いてから・・・。
ぎりぎりと骨の髄から縛り上げられるかのような気味の悪い痛みが、ずっと絶えることなく襲っている。
ルカの応急処置の対処の良さから、どうやら変形したり、後遺症が残る状態にはならないようだが、絶対安静には変わりない。
固定していても、感覚が麻痺するわけではないので、自然と眉間にしわが寄る。
「では明日の午後、また診察にまいりますから。・・・大切なお体です。くれぐれもご養生されよ。」
「はい・・・・先生。・・・・・ありがとうございました。」
「・・・・キャロル、あまり暗い顔をしなさるな。ファラオが痛く心配なさっておられるゆえに。」
「あ、あんな人!――――――心配なんかしてないわよ!!!」
「キャロル!それは・・・」
「わ、私は・・・所詮メンフィスにとって奴隷となんらかわりないのよ・・・ただの所有物でしかないのだから・・・・・・・だから・・・だから・・・・・・・・」
涙がじわりと湧き上がる。
――――――そう、所詮奴隷と同じ。私はその程度の人間でしかない・・・
ファラオの妃となる者・・・それがなんだというの?
メンフィスにとって自分はほんの小さな無力な人間でしかなかったのよ・・・
逆らった訳ではないわ――――――わかって欲しかっただけなの・・・
私の言葉を聞いて欲しかっただけなのよ――――――
ほろほろと溢れ出す涙をどうすることも出来ず、キャロルはただ泣き続けた。
何か言葉をかけようとした医師であったが、側にいたナフテラに目で止められ、付き人たちとともに静かに部屋を退出していった。
「キャロル・・・お体にさわります。どうかキャロ・・」
泣きじゃくったままキャロルは、慰めるナフテラのやさしい胸を借りた。
(愛している・・・・そなたを・・・そなただけを――――――)
耳元でこだまするメンフィスの声。
ヒッタイトの戦いの中、ひたすらキャロルを守りつづけた姿が脳裏に蘇る。
(貴方の声はもう私の頭から消し去ることはできないのよ。どうしても忘れることなんて出来ないの・・・・)
そんな呪文をかけておいて、貴方は私をこんな風に扱えてしまう・・・。
貴方は私を望んだわ・・愛していても私を殺すの?
ねぇメンフィス、私を殺してしまうことができるの?
私にはわからない――――――あなたの心が・・・・遠すぎてわからない
ひどいわ・・・・メンフィス・・貴方の愛がわからない・・・
ナフテラの胸の中に身体を埋めて、ずっとキャロルは泣き続けるのだった。
夕刻、キャロルは一人奥宮のベランダに寄りかかり、沈みゆく夕日をただ瞳にぼんやり映していた。
王宮からの素晴らしい眺望にもかかわらず、
なんの感動もないまま焦点の合わない視線を茜色に染まる空に投げて・・・
腕の痛みは、夜になるとまたひどく疼き出す。
急激に冷え込む砂漠の気候のせいだろう。
夜風は良くないと分かっていても、なぜかその場を動けないでいた。
次第にぶり返してくる痛みと一緒に、
また、気持ちの辛さも津波のように膨らみ押し寄せてくる。
寒さからなのか、痛みからなのか、
それとも打ち寄せつづける悲しさのせいなのか・・・
肩を抱いて震えている自分に気が付いた。
それでも・・・・考えてしまうのはメンフィスのことばかり。
――愛しているから、聞いて欲しかった
・・・どうしてもわかって欲しかったのよ。
わたしは現代に生まれた人間だから・・
今でも・・・世界を治めるのは『愛』だと信じているから・・・・
激情のままに人を殺す―――私が貴方の妃になる運命なのならば・・・
私の夫となる人がそんな恐ろしい人であって欲しくない・・・。
貴方にやさしい心をもった王になって欲しいと願うのは罪なの?
ねぇメンフィス・・・
なぜ・・・わたし・・貴方を愛してしまったの?・・・・
こんなにも粗暴な貴方を・・・
――――――でも愛さずにはいられなかった
・・もう・・・貴方しか見えないのよ・・・・
わたし・・・・・どうしたらいいの?
心が痛くてたまらない・・・・・・
そうよ・・腕の痛みより・・・・心が痛いんだわ・・・・
こんな事になっても、わたしあなたを愛してる・・・
あなたが愛しくて苦しいの・・・わたしの愛したメンフィス・・・
どうしたら、わたしの切ない気持ちをあなたにわかってもらえるの?
言葉を詰まらせて小さく嗚咽しながらキャロルは泣いた。
「・・・・ひっく・・・メンフィス・・・メン・っ・」
小さな肩を震わせバルコニーに突っ伏しながら。
夕日が沈みきると同時に、エジプトの空はあっという間に、重い闇のベールが天上にかけられてゆく。
星の煌めきを見上げたメンフィスの目に淡く光る影が見えた。
月光を背に燐光を放つキャロルのシルエットが浮かび上がって見えたのだ。
「キャロル・・・・?・・・・・・泣いて・・?」
えぐるような感覚が心臓をつき刺す。
何がキャロルを泣かせているか分っているだけに、たまらなくなる。
まぎれもなく自分が、己がキャロルを泣かせているのだ。
すぐ側に駆け寄り、気も失わんほど抱きしめてやりたい!
愛しいそなたを・・その涙を拭い去ってやりたい・・・・!!!
それなのに・・・・!!!
この手の中に抱きしめようとすれば、今のそなたはきっと・・・・・
両足が凍りついたようになり、体を前へ動かすことができなかった。
足をすくませている自分に気づき、愕然とする。
噛み締められる奥歯が鳴り、同時に握り締められた指先は、
手のひらを食い破りそうなほどに震えていた。
だからといって、どうしてやればよい?
なにが悪いと言うのだ?
罪人をただ処罰しただけではないか!
それがなぜいけない?なぜそんなにも私に刃向かう?
なぜわたしをこれほどまでに苦しめる?!!
(メンフィス!たとえ罪人でも人の命は大切なのよ!殺してはいけない!)
(いやっ!!! そんなあなたは いやぁぁっっっ!!!)
(嫌いよっ!!!顔も見たくないっ・・・・・・!!)
(殺すなかれ・・・・・)
(きゃぁぁぁぁぁぁ・・・・・・!!!!!)
(ああっ!!腕が折れているっ!!!メンフィス王!!なんと!!!)
大きくかぶりを振って視線を落とし、残像を振り切るように踵をかえした。
まるで何かから逃げだすように。
「そなたの申すことは分らぬ・・・・・・なにもかも!!」
胸の奥がざっくりと裂けて、どくどくと血しぶきをあげ続けているようだ。
苦しみの滝となって溢れ、止まることを知らないかのように
メンフィスの心を蝕み、切り刻んでゆく。
「愛しているのだ・・そなただけを・・なぜ分らぬ?この私の心を・・・」
二人の胸の傷跡・・・
それは癒えきることなく心の奥深くに刻みこまれた、愛ゆえの痛み・・・
・・・・永遠に・・・・、いとしい者への残像となって―――
己の心を縛る・・互いに忘れえぬ記憶となる――――――。
宝石のように輝き煌めく・・・・
懐かしい・・愛する者のかけらへと変わってゆくのは、まだ遠い未来―――
Fin.
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