王家の谷へ

ヴェール
VEIL


真夜中の水辺
闇の中に一瞬きらりと光が反射する。
青い閃き―――
ひたひたとかすかな気配が夜の空気を振るわせた。


(・・・・・逃がしはせぬ!)
メンフィスは前方を行くものよりも遥かに透明な空気と化した。
息を殺し、狙いを定め、眼光をさらに鋭くする。
ひとつ・・ふたつ・・
目標に見据えているそのものは、宮殿の大柱の間隔5つ分ほど先
先方の動きが止まるのにあわせ柱の影に音もなく足を止める。
闇夜にも彼には全てが見えているようだった。

周囲をみまわし・・前方のそれはゆっくりとかがみこんだ。
ぴしゃ・・

「はうぅっっっ―――――!!!!っっ」

メンフィスは寸での所で声を止めた。
『どこへ行く・・・・!!!』
そう怒鳴りつけようとして。
あと少しでその全てを発しようとしたそのときに、その耳に飛び込んできたのは、娘の音なき悲鳴のような苦痛のうめき。

「ぅう・・・・っ・・・・」
明らかに激痛にこらえるような苦しみをかみ殺している声
水辺にうずくまり細い両腕を水の中に肩まで差し出すようにしてふるえている
時折水際で跳ね返るわずかな波に、硬直したまま―――

どのくらいそのままの状態でいただろうか。
きっと腕の体温などすっかり奪われきっているだろうと思えるほどの時を経て、ようやくその腕は水面から持ち上げられた。
だが、そのあとすぐに今度はそっと恐る恐るゆっくりと足を水の中へ差し込んでゆく。慎重に・・・恐ろしく慎重に・・・。周囲に水音がするのを嫌ってのことではない。
逃げ出すのであれば、これほど妙な動きはしないだろう。
水辺に着いた時から既に随分の時間を経てしまっている。
ぐずぐずとして闇にまぎれる機会を逃す間抜けなことは「あれ」は絶対にすまい・・・。

「・・・・・・ひっ・・・ぅぅっ・・・・・・!!!!」
背まで水に浸かったとたん、やはりその悲鳴はかすかにもれ聞こえた。

苦痛に耐える小さな震えに混じってわずかにすすり泣く声も流れてくる。

「・・・ぅっ・・・・ひっく・・・ 痛い・・・痛い・・ママ・・・・・・ 助けて・・・・」
少し冷たい夜の風に乗って、それはだんだんと大きくなっていった。
いや・・・おそらく柱の陰で立ち尽くす彼の耳にだけ――――



********************


「!!!!!まぁ・・・!!!キャロル!! どうしたのです?!」
開口一番、ナフテラは目をむいてキャロルの姿を見据えた。
「・・・・・・・・・・・・・・」
じっとうつむき加減のまま、キャロルは返事をするでもなく目線を横に流した。
そのまま与えられた朝の侍女の仕事に無言で向かおうとする。

憔悴しきった瞳・・・
そしてなにより、肩から背・腕にかけて真っ赤に赤らんだ肌
(日焼け・・・??!! それにしても・・・これはひどい)

「おまちなさい、キャロル」
「・・・・仕事に遅れますから・・」
「そんな状態で勤めには出せません。とにかくこちらへおいでなさい。・・・まぁ・・なんとひどいこと・・・・・こんなに目まで腫らせて・・眠っていないのでしょう?」
「・・・・・・・」

特に赤くはれ上がっているのは彼女の二の腕と、泣きはらしたあとの目じり・・。
ナフテラは小さく息を吐いた。
これではとても眠ることなどできなかっただろう。
少しでも触れようとすると、キャロルは反射的に体をこわばらせ嫌がった。
布がすれることですら痛みを発するようだ。
白い肌がやけどをしているかのごとく熱をもち、痛々しいこと限りない。

「どうしてこんなことに・・・?昨日はなんともなかったでしょうに・・」
「・・・・・一日中屋外につれまわされていたから・・・わたしは白色人種だから強い『紫外線』に弱いんです・・・。だから・・・」
「???」
「長時間・・・砂漠の強い太陽の光に当たり続けたら、わたしの肌は火傷のようになってしまうの・・・。」

火傷・・・・確かに見た目にその通りだった。
火ぶくれまではしていないが、赤く熱を持った状態はさぞかしひりついて痛かろう・・。

「・・・・・とりあえず手当てをいたしましょう。・・・どうやら冷やした方がよさそうですね」
「・・・・・で、・・・でも・・・・」
「さあ、はやくこちらへ。心配せずとも今日 王はすでにお出かけです。よいからすこし痛みがひくまで部屋で休みなさい。」
「・・・・出かけて・・いる?」
「夕刻までは戻られないとおっしゃっておいででしたよ・・・。・・・どうです?痛みますか?」

ナフテラはてきぱきと室内の水桶に薄布を浸し、冷たくぬらした布を手際よく腕から肩へと順番に乗せながらキャロルの様子を伺った。
ひんやりとした感触と、メンフィスからほんの少しの間でも開放されたという安心感で、明らかにキャロルの緊張は解けていったようだ。
ほっと小さなため息をついて、ナフテラの適切な手当てと気遣いに、ほんのすこし柔らげた表情で謝意を述べた。



++++++++++++++++++++++++

「・・・・え?今日はよろしいのですか?」
「・・とてもついては来れまい―――」
「?」
「とにかく今日は置いてゆく。だが目を離すな。」
「は、はい。」

++++++++++++++++++++++++

それはその数刻前のこと。
早暁にいきなり遠方の見回りに行くと告げられ、身支度を慌しくするさなか、ナフテラはメンフィスからそんな指示を受けていた。

心配―――
不安―――
・・・思いやり・・?

(ついては来れまい・・・)

そんな呟きともとれるような言葉に、ナフテラはメンフィスの中にいままでにない違う声音を聞き取った。

王の心に小さくも芽生えた優しさが一体何からだったのか
もう今更改めて問う必要もない。
―――あの黄金の髪の娘に対してだけだ。

恋心―――
おそらく、まごうことなく本物の恋に落ちておられる。
ただ珍しい玩具に夢中になっているのではなく・・・・・・・。
それを・・・確信した瞬間だった―――



手当てを一通り済ませた後、ナフテラはふんわりとした布地を手にキャロルの身長を測りだした。

「なに?なにか・・・?」
「いいからじっとしておいでなさい。すぐに済みます。動いたら肩に触れるでしょう?」

手早く寸法のしるしを布に打ち、それを片付けてから、もう一度キャロルの日焼けした肩の状態を確かめ、冷たい水に浸した別の布を取り替えてやる。

「・・・つっ・・・・だいぶ夕べ冷やしたのに・・・・・」
「ゆうべ?」
「・・・ナイルにつけて冷やしていたの。熱をもってベッドではとても横になんてなれなかったから。・・・でもあまり効果はなかったみたいね・・・・」
「・・・・・とにかく・・・安静にして。 眠れるようなら、お眠りなさい。」
「ええ・・。ありがとう。わたしなんかにかまっていたら・・・・・・お仕事に差し支えるわ。わたしは一人でも大丈夫だからもう行って下さい。」

キャロルはかるく頭を下げて優雅に礼を言った。
洗練された立ち振る舞い・・物怖じのなさ・・・とても奴隷として育ったとは思えない空気をその身に備えている不思議な娘。
金色の髪がさらさらと流れ落ちる。

いつか・・・この娘が王の隣に立つ日が来るのかもしれない・・・・
そっと部屋を立ち去りながら、ナフテラはそんな予感を抱いていた。


ナフテラの手にしているのは上質のヴェール・・・
柔らかな美しい素材
ファラオの好む薄めの青
あの黄金の髪とともになびけばきらめくナイルのごとくさぞかし美しいことだろう

王が戻られるまでにこれを仕立て上げてしまわねばならない。
それは・・キャロルの肌を心配して、出かける間際に言い残された命令だった―――






以来・・・
どんな時でも、王は傍らに寄り添うその人が光の中に立つ時必ずヴェールをまとわせている。

二度とその人が泣かないように。
二度とその人が苦しむことがないように。
・・・・二度とナイルに嘆き悲しまぬように―――




********************


陽光輝く中庭
自分の肩衣をそっとはずし、華奢な背中にふわりとかける王の姿があった。
かの人は振り返る
柔らかな微笑みを風になびかせて。

幾年月・・・・・・・
彫りの深くなった皺に刻まれた愛情の年輪
繰り返し重ねられた同じ行為・・・・同じ行動

光とヴェールと貴方の優しさ
何度も何度もその繊細な気遣いに包まれてきた事を思い返す・・・・それは変わることなく今もこの身にかけられて・・・

激しい貴方の中に息づいている・・似つかわしくないほどの静かな愛

     随分前から気づいていたわ―――――――
     ずっと・・いつも貴方が心にかけてくれていたことを。
     今まで一度も口にしてくれたことはないけれど・・・



光の中で 王がだまって微笑む
そして何も言わず・・そっと・・・たなびく布地を引き押さえ、彼女のヴェールの乱れを直すのだ。

そのたびに・・静かに彼女の心の中に幾重にも折り重なって降り積もってゆく・・・・・・・・・
無言のなかの愛情のヴェールが・・
幸せだと泣きながら・・・

幾重にも・・幾重にも・・・・・・幸せの海原のように・・・
永遠に舞い降りる散華のように途切れることなく


心の中に降り積もっていく―――――






Fin.





王家の谷へ

© PLEIADES PALACE