王家の谷へ

Presented by さくら様

新月の夜には



新月の夜には、魔が潜むという―――――。

「新月の夜は、月の女神の加護を得られぬ。むやみに闇に近づくでないぞ。禍々しい者どもが潜んでおらぬとも限らぬゆえ。」
メンフィスの妃となる以前、ふと思いついたように、彼はキャロルにそう言った。

「やだ、メンフィス。迷信でしょ?」
「・・・そうとも限らぬ。」
言いながら、メンフィスは涼しげな漆黒の瞳を部屋の隅の暗くなった場所に向けた。
つられて、キャロルもそちらに視線を向ける。
「―――――見よ。」
「!」

古代の闇は濃い―――――。
だが、その場所の闇は異様に濃いように感じた。
禍々しい程の闇が、僅かに、ほんの僅かに揺らいだような・・。

「きゃ・・!」
小さな悲鳴を上げて、キャロルはメンフィスに飛びついた。
「・・・見えたか?」
「な、なにかいるの?」
「・・・ふん。大方、アクの中で彷徨う亡者でもあろう。」
メンフィスはキャロルには理解出来ない言葉をなにごとか呟くと、指で宙になにかを描き、ふっと息をかけた。
「―――消えよ。」
そのとたん、闇はただの闇に立ち戻り、禍々しい気は霧散した。

「な、なんだったの?今、なにしたの?」
「古い呪文だ。あの程度の魔ならば払えよう。」
言葉とは裏腹に、メンフィスの漆黒の瞳は嬉々として輝き、しがみついている愛しい娘を強く抱き締めた。
「――だが、あれもそう悪いものではないな。
そなたが、このようにしがみついてくるのであれば・・・。」
メンフィスは、柔らかな唇に嬉しそうに囁いた―――――。

この日から―――――。
他愛のない迷信は、キャロルの中では真実となり、メンフィスに格好の悪戯を提供した。



「―――なんだ、この部屋は?」
キャロルがメンフィスの妃となって初めての新月の夜―――――。
政務を終え、キャロルの元を訪れたメンフィスは、部屋の隅から隅まで皓々と照らされた王妃の部屋に、眉を顰めた。
「おかえりなさい。メンフィス。だって今夜は新月なんですもの。闇には魔物が来るでしょ?怖いから、いつもこうしてもらっていたのよ。でも、この部屋は広いから、たいへんだったわ。」
「なにをばかな・・。このわたしと一緒におるというのに、なにを畏れることがある?即刻片づけよ。」
メンフィスはぞんざいに顎をしゃくって、傍らの侍女に言いつけた。
「やっ・・!メンフィス・・!」
「明るすぎる。このような部屋では落ち着かぬ。・・・まさか、寝所もこのような有様ではあるまいな。」
「・・・当然、そうよ。」
メンフィスの命令で、そそくさと灯りを片づけ始めた侍女をうらめしそうに眺めながら、キャロルは憮然と答えた。
「片づけよ。」
キャロルは上目遣いで、メンフィスを見上げた。
「・・・暴君。」
ぴくりと、メンフィスの眉があがる。
「・・・なんと申した?」
「だって・・・!新月の夜はこわいって、教えてくれたのはメンフィスじゃない!」
「このわたしのそばにおる限り、この世にそなたが畏れなければならぬものはなにひとつないと申すに。・・・まだ、わからぬか?」
「・・・・・そんなこと言ったって・・。」
「・・まあ、よい。夕餉にいたすぞ。腹が減った。」
いつもどおりの灯りに直された夕餉の席に、メンフィスはキャロルを座らせた。

「ふむ・・。そなたと過ごすと、新月の夜も悪くはない。月の女神の加護は得られぬが、ナイルの女神の祝福があるとみえる・・・。」
いつになく身体を寄せてくる愛しい妃の肩を抱いて、メンフィスは上機嫌だった。
だが、キャロルはそれどころではない。
メンフィスが怪しげな呪文で、闇を撃退した日から、すっかり『新月の夜の魔物』を信じ込んでしまっている。
暗い闇がすぐそこの部屋の隅に広がるような場所では、1ミリもメンフィスから離れるのが怖いのだ。
「そら、そなたも食せ。さっきから、少しも食べておらぬではないか。」
「怖くて食欲なんてないわ。」
「食せねば、気も弱る。気が弱れば、魔はつけ入るぞ。そら。」
キャロルの口元に好物のパンをちぎって押しつける。
「・・・・。」
キャロルは無言でパンを口に入れ、もぐもぐと噛みながら物言いたげにメンフィスを見上げた。
その幼げな様子に、思わずメンフィスの口元が緩む。
「・・・今、笑ったでしょ?」
「・・ん?まあ、よいではないか。」
「・・・もしかして、おもしろがってる?」
「なにをばかな。愛しいそなたをおもしろがったりするものか。」
メンフィスは朗らかに笑ってキャロルの肩を引き寄せ、不満げなキャロルをよそに上機嫌で食事を終えた。

「―――そろそろ、寝所に引き上げるか。そなたらは下がれ。」
「おやすみなさいませ。メンフィスさま。王妃さま。」
「おやすみなさいませ。」
部屋の隅に控えていた侍女たちまで下がってしまうと、広すぎるその部屋はしん、と静まりかえり、闇もその深さを増したようだった。
「・・・メンフィス。」
不安そうにたおやかな身体をすり寄せる妃が、メンフィスは愛しくてたまらない。

・・・愛しくて愛しくて、つい、虐めたくなるのだ・・。

「どうした?寝所に参るぞ。」
「・・・えっ?」
いつもは有無を言わせずキャロルを抱き上げて寝所に向かうのに、メンフィスは一人でスタスタと寝所に入ってしまった。
「やっ・・・!待って!メンフィス!」
慌ててメンフィスの後を追おうとしたキャロルだが、更に暗い寝所の入り口で思わず立ち竦んでしまう。
「どうした?・・・参れ。」
寝台に腰掛け、メンフィスは不敵な笑みを浮かべてキャロルに手を差し伸べた。
「・・もう!意地悪しないで・・!」
「ふん。よいのか?そなたのそばまで、魔が迫っておるというに・・。」
「きゃーーーっ!!」
キャロルは、その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、メンフィスの腕に飛び込んでいた。

盲信の作り出した魔物より逃れて、獅子の胸元に縋った愚に少女はまだ気が付かない――。

「・・・まったく、そなたという奴は・・・。」
くっくっくっと、さも愉快そうに笑いながら、メンフィスは胸にしがみつているキャロルの顔を上向かせた。
「・・・愛しくてならぬわ。」
メンフィスを見上げた蒼い瞳が潤んでいる。
僅かに開いた唇が、誘うようにわなないていた。
ためらうことなく口づけると、メンフィスは抱き締める腕に力を込めた。

サワッ・・・。

ナイルより吹きつけた涼風が、ひとつのシルエットとなった二人の髪を僅かに揺らす。
漆黒と黄金の髪が混ざりあった。
「―――――魔を払ってやってもよいぞ。・・・そなたが望むなら・・。」
「ほんと?」
「ふん。このエジプトのファラオが働いてやろうというのだ。――――褒美は高くつくぞ。」
「ほ、褒美って・・・。あなたはなんでも持っているじゃない。私は、なんにも持ってないわ。この身一つよ。」
「その身こそ、この世でわたしが望むただ一つのもの。・・・我が妃よ。この小さな手に、我が心を握る者よ・・。」
メンフィスは白い手を掴むと愛しげに唇を這わせた。
「やっ・・!メ、メンフィス・・!」
ゾクリ、とした感覚が背中を走ったのを感じて、キャロルは反射的に手を引いてしまった。
「・・・魔は払わずともよいのだな?」
わざと意地悪く、そんなことを言ってみる。
「やっ!意地悪っ、意地悪っ!」
胸を叩く華奢な手首を押さえて、メンフィスはキャロルの蒼い瞳を覗き込んだ。
「・・・褒美はこの身ぞ。よいな。」
キャロルが、不承不承頷くのを目の端に捕らえて、メンフィスは低く呪文を唱えた。

それが本当に呪文なのかも、キャロルには解らない。
だが威厳のあるメンフィスの声が、その言葉を厳かに唱え、その手が何事かを詠じて、彼が息を吹きかけると、確かにその場が浄化されるのを感じるのだ。

「・・・ふむ。これでよい。さて・・。」
目当ての獲物を前にした、喜色に満ちた獅子の瞳がキャロルに向けられる。
「・・・褒美を貰おうか・・・。」
この大国に君臨する若き獅子はゆっくりと獲物を組み敷き、その白い項に優しく歯を立てた。
「まこと、そなたは愛しくてならぬ。・・・このまま、喰ろうてしまおうか・・・。」
「やだ。メンフィス。本当にライオンみたい。」
先程までの怯えた様子など微塵も残さず、金色の娘は獅子の腕の中でクスクスと笑った。
メンフィスが驚いていると、キャロルが白い腕をするりと彼の首に回し、その耳元に何事か囁いた。
「!」
「うふふ・・。」
恥ずかしそうに誘うように微笑む妃から、メンフィスは視線を外せない。
「・・・こやつ。」

―――――じゃあ、食べて?

無邪気にも―――――。
いや、無謀にも己を欲して止まぬ男に向かって、もの慣れぬ少女はそう言い放った。

立場が逆転する―――――。

キャロルは悪戯っぽい顔で微笑んでいる。
そして先程まで、少女を翻弄していた男の余裕は塵と消えた。
ドクドクと波打つ心臓の鼓動が、五月蠅いほど耳元で鳴っている。
キャロルに向かって、マグマのように吹き上げる愛情と欲望が、メンフィスの理性を粉々に砕こうとしていた。
「・・・よかろう。このエジプト王メンフィスの名に賭けて誓う。今宵は特別な宵と為さん。・・・そなたにとっても、わたしにとっても。」
言葉の意味を計りかねて見上げたキャロルの瞳に、今まで見たこともないほどの欲望を露わにした、メンフィスの漆黒の瞳が映った。
あっ、と声を上げる間もなく、キャロルの夜着が剥ぎ取られる。

そして―――――。

キャロルは翌日、昼を過ぎても寝台から起き上がれずにいた。
自分の言葉をひどく後悔しながら―――――。

(メンフィスに『食べて』は禁句ね・・・。)

文字通り、『身をもって』学んだ知識だった。
新月の夜は、王妃を一つ賢くし、王にこの上もない至福の時を与えた。

やがて月日は巡り、エジプトの若きファラオと王妃が切ない別離を乗り越えて、再会を果たした後も、変わらず王妃は新月の夜を怖れ、ファラオは嬉々としてその夜を楽しんだという―――――。


Fin





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